もちろん、なっこもコロナワクチンを一度も摂取していません。
これから書くことは、コロナワクチンを一度も摂取しなかった、なっこが勝手に同志と思っている人へ向けた、振り返りの共有です。
ですので、コロナワクチンを接種した人、反ワクチンの活動をしている人は読まないでください。
なお、信頼できる情報や根拠に基づいていません。信じたり、間に受けたりしないでくださいね。
摂取は自己責任という妙手
コロナウイルスが流行し、社会に不安と閉塞感が充満していた当時、すべての問題を解決してくれる、あたかも奇跡の特効薬であるかのように、人類史上初のRNAワクチンは、日本に到来しました。
世界一の長寿であるにもかかわらず、生命保険加入率が9割を超えている日本人は、脅されたり、不安になることを言われたりすると、すぐ行動しちゃう国民性があります。
また、みんなのため、子供やお年寄りや基礎疾患がある弱者のためとか、日本人の伝統的なあるべき姿である「正義のいい人」をくすぐられる台詞を与えられると、もう思考停止で、自己犠牲してでも、ガチですぐ行動しちゃう国民性があります。
そのユニークな国民性を踏まえたうえで、コロナワクチンの接種は自己責任、つまりワクチンを打つ打たないは個人の判断となっていきます。
なぜ自己責任か
それは、コロナワクチンは10万人に1人くらいの割合で、重篤な副反応がでることが分かっていたからです。
いたって健康な、善良な働き盛りの日本人が、ワクチンを打って、健康を著しく損なったり、最悪死んじゃうわけです。
でも確率的には、例えば東京都民1000万人の内、100人くらいですから、残り999万9900人はちょっとくらい熱はでるでしょうが、摂取することで、社会全体の利益になるわけですね。
社会全体の利益とは、
- 大切な票田である高齢者を守っている感を出せる政治家にとって
- 国費でワクチンを買うことで発生する何兆円という利権にあやかれる人たち
- 不安な人たちに解決策を与えて、経済の停滞から脱する
ことを指します。
運悪くワクチンの副反応で日常生活を失ったり、生命を失った100人には、
- 最初にきちんと説明しましたよね
- 打つ打たないの最終判断は自己責任でしたよね
- 副反応だという診断をしてもらってから来てくださいね
と当たり前のことを当たり前のように粛々と対処するわけです。
10万人に1人の人柱
残念ながら、重篤な副反応で健康を無くしたり命を無くした人ってただの人柱なんですよ。
人柱になる可能性が超低確率だけどあります。だけど、ワクチンにはそれを補って余りある利点があります。それはみんなにとって(都合の)よい人になれるということです。
健康な若者はコロナになっても死にません。ですが、おじいちゃんおばあちゃんやお子さんのためにこのリスクを受け入れてみてはどうでしょうか。ですが、あくまで打つ打たないは個人の自由です。
なぜコロナワクチンを義務化、あるいは強制しないのか
その方が、国全体として都合がいいからです。
まず、国がなにかを強制しようものなら、国の中でお金・時間・人脈を持っていて、社会に革新と新しい価値を提供する、「10万人に1人」な人材が国外に流出してしまいます。それは、優秀な社員ほど真っ先に傾きそうな会社から去るのと同じで、戦争するために徴兵令が出そうになれば、先見の明のある優秀な国民から国外に逃亡する現在のロシアと同じです。
それは、民主主義、権威主義、資本主義、社会主義関係なく、一定数は盲目的に多数派に従い、ごく少数は、正義と使命感からそれらに反逆する集団を形成し、ほんの少しあるかないかの達観した個人は、民衆のうねりは天気と同じと捉えて、雨に文句を言っても止まないのと同列に扱い、自己の保身のみを最優先します。
言うまでもありませんが、コロナワクチンを一度も摂取しなかったあなたやなっこは、日本の組織が纏う世界最強レベルの同調圧力に負けず、ワクチンを打たなかったくらいでビクともしない収入源や家族や友を持ち、良く見聞きし分かり、結局は、誰も責任を取ってくれないし、それが自己責任の本当の意味であると見抜いているわけです。
今、反ワクしている人
国を挙げて右に倣う日本人の中に、一定数正義の旗を掲げ、真逆を全体に強制する人たちがいます。大東亜戦争からコロナワクチンまで、大多数のうねりと少数の抗いは、サブジェクトを変えながら、ダイナミックにこの国の趨勢を決めていきます。しかし、正しいことの強制って、基本的に響かないんです。
例えば、車を運転していて、信号待ちをしていますと、ところどころペットボトルやコンビニ弁当の容器などゴミが落ちています。そういった場所にはたいてい、「ゴミを捨てないで」などとカンバンが設置されています。
まず、車の窓からゴミをすてるような低俗な人たちは、カンバンで諭されたくらいでは、自己の行動を改めたりしません。そもそもカンバンを読むかどうかも怪しいレベルです。
そして、ここが大切なのですが、ゴミが捨てられる場所にカンバンを設置するような正義の人に、つまらないからやめろとか設置してもゴミポイ捨ての根本解決にならないから無駄だと言っても、聞く耳はないでしょうし、おそらく発狂してしまうでしょう。
つまり、ゴミポイ捨てマンとカンバン設置マン、ワクチン推奨マンと反ワクチンマンって構造的に同じで、どっちも聞く耳は無いんですよ。
自分は正しいと喚く二つの集団なんですね。獣と獣が言い合うっている状況を「獄」という漢字は表します。どちらも言いたいことだけ言って聞かない状況って、地獄なんですね。
地獄って楽しくないですから、そんな集団や状況には関わらぬが吉です。
また、過って関わってしまったり、集団の一部になっているなら、黙ってすっと抜け出すが善です。間違っても周りを変えようとか、相手をやっつけようとかしないことです。無理なんでね。そんなつまらないことに人生の時間と労力を使わないで、北海道でも行って、おいしい海鮮でも食ってた方が楽しいです。
そもそも、大多数と少数が織りなす人間文明劇場って、自然の一部なので、一個人がどうこうできるものではないです。
かのルソーは「人間のやることも自然の一部」と見抜いたわけですが、それの焼き直しみたいな文章を書いておるなっこもまた、俯瞰的な視点を持ちつつも、それすら自然の一部であろうと思います。


