発なし反応なし手の施しようなし

子供時代というのは、学校という、言わば決められたイベントの連続で、それらのイベントは、それなりに楽しくもあります。

しかし、いったん大人になってみると、楽しいイベントは、皆無であると気がつきます。特に、会社という組織に、イベントのほとんどを委ねていた前世紀とは違い、個の時間に、会社は干渉しない社会が、成熟してきました。

21世紀の日本は、自分が発しないと、基本的に、なにも特別なイベントは、起こらないんです。

地域や、血縁や、会社が提供していたイベントは、強制参加でした。しかし、ほとんどすべてのイベントは、廃れたか、任意参加になりました。

こんな時代に、なにかを発案してくれる人は、とても貴重です。でも、彼らは、ある意味絶滅危惧種です。なぜなら、イベントを発案して、誘ってみても、レスポンスよく、参加を表明する人がいなくなってしまったからです。

  • 用事がある
  • ちょっと忙しい
  • 行けたら行く
  • ごめんその日は無理だわ

レスポンスの良くない人は、代替え案や、振替日を提示することもありません。

誘いに嫌な顔をすれば、二度と誘われません。

誘う方も、断る人を何度も誘うことはしません。誘うことに関して、すごくハードルが高くなってしまったのが、現代日本です。そして、貴重なイベント発案者たちは、諦めてしまっているのです。

これは、一つの時代の流れでしょうか。

別に、誰から誘われなくても、自分から発しなくても、SNS、ネット実況、ネット配信などを見ていれば、なにかやったように錯覚して、時間は過ぎていくのです。

名もなき独りの集合体が、何の約束も、責任もなく、40点くらいの楽しさを享受できる社会。それが、いまのネットが提供する娯楽です。

ネットが提供する娯楽は、個はあってないようなものですので、傷つくことも、嫌な思いをすることも、基本的にはありません。そして、秒単位で、幾千もの新しい情報が提供されます。退屈することは、無い様に思い込みます。

これは、本当に楽しいのでしょうか。

民間放送局が提供するテレビ番組は、本編とCMで構成されています。視聴者は、本編を見るために、テレビを買うんですね。

でも、そんな当たり前のことが、インターネットでは、逆転してるんです。誰かの表現を見続ける体験が、実体験よりも人を魅了してるんです。

人生のCMを消費し続けるわたしたちは、人生の本編を見もしないんです。

わたしたちの人生の本編って、ネットが提供する娯楽でしょうか。それとも、自分が発したイベントや、友達が誘ってくれたイベントでしょうか。

巧妙に、時間を盗る仕組みが、わたしたちを取り巻いているんですね。

発しないし、反応しない状態になってしまうと、彼らは、それなりに楽しい、充実していると錯覚していますから、手の施しようがないんです。